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3.時という宝(1956年6月9日)

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あなたがたに話しかけ、共に主なる神と語り合うとき、私は自分の祈りを声に出しているにすぎません。これを常に念頭において欲しいと思います。祈りとは主との愛の語り合いですから、今日のように一見したところ祈りと関係のないテーマを取りあげる場合でも、心の中で祈りに実りを与える努力をしなければなりません。<一見したところ>と申しましたが、実は、私たちの身に起こることや私たちの周囲の出来事は、いずれも黙想の題材になります。またそうでなければなりません。

今日は、時について、この過ぎゆく時について話すことにしています。といっても、過ぎ去った歳月は戻らないというような、自明の事柄を繰り返すつもりはありません。月日が経つことを巷ではどう考えているか尋ね回るよう提案するわけでもない。尋ねてみたところで戻ってくる返事はおよそ見当がつきます。「青春よ、素晴らしい宝よ、お前は過ぎ去り、もはや戻ることはない…」。だからと言って、もう少し超自然的な意味を含む言葉を耳にする機会がないとは言うつもりはありません。

人生のはかなさを強調して郷愁の念を煽ろうというつもりもありません。この世の旅路が束の間であればこそ、キリスト者は奮起して時間を無駄なく用いるよう努めなければなりません。主を恐れるなど良いことであるはずはなく、死を惨めな破局のごとく考えるに至ってはもっての外です。あれこれ言い回しを工夫して詩的に表現されていますが、神の恩寵と憐れみを受けて終える一年は、最終的な祖国である天国に一歩近づくことにほかなりません。

このように考えると、聖パウロがコリントの人たちに宛てた書簡の叫びが私には本当によく理解できます。「時は短い」1。この世での歩みのなんと僅かしか続かぬことか。筋金入りの信者の心には、寛大な応えの不足に対する叱責の声、忠実を尽くせという絶え間ない呼びかけとなって響きわたる言葉でしょう。愛し、捧げ、償うために、残された時間は実に短い。それゆえ、時間の浪費は不正を働くに等しく、時間という宝を窓から捨てるような無責任は許されません。神が一人ひとりにお任せになった人類史のこの時期を無駄に過ごすことなどできないと申し上げたいのです。

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マタイ福音書の第二十五章を開いてみましょう。「天の国は次のようにたとえられる。十人のおとめがそれぞれともし火を持って、花婿を迎えに出て行く。そのうちの五人は愚かで、五人は賢かった」2。賢い乙女たちは時間をよく活用したと福音史家は書いています。慎重に前もって油を準備していたので、「『花婿だ。迎えに出なさい』と叫ぶ声がしたら」3、灯を大きくし、大喜びで花婿を出迎えます。

最後の日は必ずやって来ます。しかし、恐れる必要はありません。神の恵みに信頼しきって今から灯を携えて、寛大かつ勇敢に小事を愛する心で、主にまみえる日を待てばよいのです。天の国では盛大な祝宴が待っています。「愛する兄弟たちよ、キリストの婚宴にあずかるのは我々である。すでに教会を信じ、聖書に養われ、教会が神に一致していることを喜ぶ我々が招かれているのだ。それゆえ、婚宴のための礼服を身に着けているか否か、注意深く自らを省みてそれぞれの思いを糾明せよと勧める」4。ここであなたがたに保証し、私自身も再確認したいことが一つあります。婚宴の礼服とは些細で取るに足らぬ仕事を通して得る神の愛、その神への愛で織った礼服であるという事実。小事を疎かにせず、見たところ値打ちもなさそうな事柄に心を配るのは愛する人の特徴ではないでしょうか。

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喩えの筋を追ってみましょう。愚かな乙女たちはどうしたのでしょうか。最後の時になってやっと花婿を迎える用意を始めます。そして油を買いに。しかし、後の祭りでした。彼女らが油を買いに行っている間に、「花婿が着いた。用意のできていた乙女たちは花婿と一緒に宴席につき、戸は閉ざされた。やがて他の乙女たちが来て、『ご主人様、ご主人様、どうぞお開けください』」5と叫んだ。彼女たちが何もしなかったわけではありません。少しは努力したのです。しかし、聞こえたのは、「わたしはお前たちを知らない」6という厳しい返事でした。よく注意して熱心に準備すべきことを知らなかったのか、あるいは、準備する気がなかったのか。とにかく、前もって油を買い入れておくという当然の用意を怠りました。わずかなこととはいえ、依頼された事柄を最後まで仕上げるという寛大な心を持ち合わせていなかったのです。時間は充分あったにもかかわらず、活用しなかったのです。

勇気を出して自らの生活を振り返ってみましょう。自分に関係のある仕事、自らを聖化する手段である仕事を丹念に仕上げる時間が、ときどき見つからないのはなぜだろうか。なぜ家庭の務めを疎かにするのだろう。なぜミサ聖祭にあずかるときや祈りのときに気が急くのだろうか。自らの義務を果たすときは気もそぞろに大慌て、ところが楽しみのためであれば悠々と時間を割くのはなぜだろう。いずれも小さな事柄です。しかし、その小さな事柄こそ肝心の油、焔と燃え上がらせ明るい灯を保つために必要な私たちの油なのです。

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朝早くから

「天の国は、ぶどう園の働き人を雇うために、朝早くから出かける主人のようである」7。これはすでによくご存じの一節でしょう。主人は何度か広場に出て、働き人と契約を結びます。ある人たちは夜明けに呼ばれ、またある人は日暮れ近くに招かれました。

全員が一デナリオンンずつ受け取ります。「ここで言う<デナリオン>とは約束の俸給、つまり神の似姿のことである。デナリオン貨幣には王の像が刻んであるのだ」8。これこそ、私たち一人ひとりの事情を考えてお呼びになる神の慈しみと言えるでしょう。神は「すべての人が救われるよう」9お望みです。私たちは信者の家庭に生まれ、信仰のうちに育まれ、確かに神の選びを受けました。これも現実です。それなら、たとえ招かれたのが日暮れ近くであったとしても、呼びかけに応える義務を知りながら、時間をもて余して日向ぼっこをするあの大勢の労働者のように、広場で暇つぶしをしていてよいものでしょうか。

時間を持て余すようなことがあってはなりません。たとえ一秒たりとも。別に誇張するまでもなく仕事は山ほどあります。世界は広く、しかも、この広い世界でキリストの教えを聞いたことのない人々が数限りなくいるからです。あなたがた一人ひとりに話しかけたい。時間が余るというのなら少し考え直してみようではありませんか。生温い状態に陥っているか、ひょっとすれば超自然的に見て、足が動かなくなっているのかも知れない。あなたは鎮座を決めこみ動こうともせず、まるで実をなさぬ木のようである。周囲や傍にいる人々、職場や家庭で共に毎日を過ごす人々に、幸せを伝え広めなければならないのに、手をこまねいているのではないだろうか。

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たぶん、あなたは言うかもしれない。どうして私が努力しなければならないのか。「キリストの愛がわたしたちを駆り立てる」10からであると、聖パウロが答えてくれます。愛徳の領域を広めるために一生は短すぎるからです。広い心で実行する決心を立てて欲しいので、倦まず弛まず次のように繰り返してきました。「互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる」11。ほかでもないこの愛徳をみて、人々は私たちがキリスト者であることを認めるでしょう。どのような活動に従事するにしても、信者の活動の出発点は愛徳ですから。

キリストは純潔この上ない方でしたが、清い生活こそ弟子と認められるためのしるしであるとは仰せになりませんでした。主は節制に徹したお方で、枕するところもなく12何日も祈りと断食13で過ごされましたが、「あなたたちが大食漢や大酒飲みでなければ、人々はあなたたちをわたしの弟子であると認めるであろう」とも、仰せになりませんでした。

いつになっても同じことが起こります。過去においてもキリストの清らかな生活は、今もよく見られるように、腐敗した当時の社会に大きな平手打ちを食わせました。宴会に明け暮れる人々、食っては吐き、吐いては食う輩、「神は自分の腹である」14という、サウロ(パウロ)の言葉を自ら地で行くがごとき人々に、キリストの節制は鞭打ちのような衝撃を与えました。

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私事にかまけて一生を過ごす当時の人々にとって、主の謙遜はもう一つの衝撃となりました。私が口―マに住みついてから何度も繰り返したので、もうお聞きになったことがあるかもしれません。今日では廃墟となったあの凱旋門の下を、自惚れと傲慢と思い上がりで膨れあがった勝利者や皇帝や将軍たちが行進したものです。壮大なアーチを通り抜けるときに威厳に満ちた額をぶつけまいと少し頭を下げて。ところで謙遜そのものであるキリストは、「あなたたちが謙遜で慎み深いなら、わたしの弟子であると認められるであろう」とも、おっしゃらなかったのです。

注目して欲しいことがあります。それは、二十世紀を経た今も、先生である主の掟は新しい掟としての力を維持しているのみならず、本当に神の子であることを示す紹介状の役割を果たすという事実です。司祭生活を通して、私は実に何度も繰り返し説いてきました。遺憾ながらこの<新しい>掟の実行に努力を傾ける人は皆無に等しい。従って、この掟は相変わらず<新しい>掟です。嘆かわしい限りですが、これが現実です。救い主の言葉には、紛う方なき明白さがあります。「互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる」。だからこそ、この主の言葉を絶えず想い起こす必要を感じるのです。聖パウロは言葉を続けています。「互いに重荷を担いなさい。そのようにしてこそ、キリストの律法を全うすることになるのです」15。時間は余っていると自分を偽って時間を浪費するあなた、けれども、仕事に追われて困り果てる兄弟や友人が大勢いるのではないでしょうか。礼を失せぬよう優しく微笑みながら、相手が気づかぬよう、さり気なく手を貸してあげましょう。相手が感謝する必要を感じないほど、あなたの愛徳が慎み深く、さり気なく、人目を引かぬものであるように。

油のない灯を携えて行くあのかわいそうな乙女たちは、自由な時間はなかったと弁解することでしょう。広場の男たちはほとんど一日中時間を持て余していました。主は朝早くから急きたてるようにして人をお探しになったのに、彼らは手助けの必要さえ感じなかったからです。主の求めや要求には快く応じたいものです。「一日の労苦と暑さ」16を愛ゆえに忍びましょう。とは言え、愛があるなら忍ぶ必要もないでしょう。

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神に役立つように

今度は喩え話に登場する人物について考えてみましょう。「ある人が旅行に出かけるとき、僕たちを呼んで、自分の財産を預けた」17。主人は、留守中、財産を管理するように、僕の一人ひとりに異なる金額を託します。一タラントン預かった男の行動に注目しましょう。彼はずるい態度をとりました。あまり切れない頭で考えた末に、「土を掘って、主人の金を埋め(る)」18ことに決めました。

仕事の元手を放棄してしまったこの男は何をしようと思ったのでしょうか。無責任にも、預かったものをそのまま返すという楽な道を選びます。一分一秒は言うに及ばず、長い歳月、果ては自分の一生までも虚しく費やすことでしょう。他の僕は、正直に運用して得た利益を加えて預かった以上の金額を主人に渡そうと、高潔な態度で必死に商売に励みます。主人の言葉は明々白々であったからです。「わたしが帰って来るまで、これで商売しなさい」19、主人が戻ってくるまでに責任をもって収益をあげよ。ところが一タラントンの男は言い付けを守らず、無益な時を過ごしてしまいました。

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時間潰しが本業であるかのように日々を送るとすれば、人生は何と勿体ないことでしょう。時間とは神から授かる宝ですから、このような態度に弁解の余地はありません。「一タラントンしかなくても功徳を積むことができるのだ」20。多少の差こそあれ、神が人々にお与えになった能力を、人々と社会に貢献するため、充分に発揮しないとすれば何と残念なことでしょう。

キリスト者でありながら時間を<潰す>なら、自らの殻に閉じこもり、責任を逃避して無関心になるならば、天国を<潰す>危険を冒すことになります。ところで、神を愛する人は所有物のみならず、自分自身をも捧げます。健康や名前や経歴において自分のことしか考えないという卑しい態度はとらないのです。

大勢の人々はいつも、「私の…、私の…」と考えたり、言ったり、行ったりしています。自分のこと以外は何の関心もないかのようです。何とも耐え難い態度ではありませんか。聖イエロニモは書いています。「『罪の言いわけを探すために…』(詩編140・4)という聖書の言葉は、傲慢の罪に加えて不注意や怠慢の罪を犯す人々において、文字通り実現する」21と。

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「私の、私の…」と終始叫ばせるのは傲慢のなせるわざです。この悪徳にとり憑かれると、人は役立たずとなり、神のために働く熱意をそがれて時間を浪費してしまいます。能率の悪い生活をしてはなりません。わがままを退治しましょう。自分の一生だからどうしようと勝手だと言うのですか。実は、あなたが生を享けたのは神のため、また主への愛ゆえに人々に役立つためなのです。埋めてしまったタラントンを掘り出し、もっと利潤の上がる運用方法を採用するよう、ぜひ勧めたいと思います。勧めに従ってくださるなら、この超自然の事業を営むに当たって、人々に賞賛されるような立派な仕事を残すか否かは問題でないことがお分かりになるでしょう。大切なのは、自らの存在も所有物も一切捧げること、才能を充分に生かすよう努力すること、よい成果をあげるよう常日頃から頑張り通すことであるからです。

神に仕えるためにもう一年が与えられるかもしれません。しかし、五年先、いや二年先のことすら考える必要はありません。歩み始めたこの一年に、まず集中するのです。土の中に埋めないで、とにかくこの一年をお捧げしましょう。これが私たちの決意であるべきです。

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ぶどう畑で

「ある家の主人がぶどう園を作り、垣を巡らし、その中に搾り場を掘り、見張りのやぐらを立て、これを農夫たちに貸して旅に出た」22。

この喩えを今わたしたちが関心をもつ角度から黙想してみましょう。聖伝はこの教えに、神の選ばれた民の辿る運命の象徴を読み取り、主の愛に対して人間はいかに不忠実な応え方をしてきたか、また、いかに感謝に欠けていたかを示してきました。

具体的に「旅に出た」という点について考えてみましょう。私たちは主から派遣された働き人ですから、このぶどう園を見捨てるわけにはいかないという結論がすぐに引き出されます。ぶどう園の仕事に精を出しましょう。垣の中や酒船で働き、一日の仕事を終えると櫓で休息します。安逸をむさぼる人はキリストに向かって口答えするに等しいと言えるでしょう。「私の一生は私のものであって、あなたのものではない。ぶどう園の手入れなどご免こうむりたい」と。

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生命、感覚、能力など数知れぬ恩寵を主は与えてくださいました。ですから、農園で働く大勢の農夫の一人としての立場を忘れるわけにはゆきません。人々に食物を運ぶ仕事に協力させるため、神は私たちを雇ってくださったのです。ここに私たちの持ち場があります。それゆえ、この農園の垣の中で、日々、自らを擦り減らすまで主の救いのわざに協力23しなければなりません

くどいようですが、もう一度申し上げたい。あなたのためのあなたの時間などと言わないで欲しい。あなたの時間は神のためなのです。神の慈しみのおかげであなたはまだひどい利己主義には侵されていないことでしょう。しかし、こう申し上げるのは、キリストヘの信心が心の中で動揺するときが、いつかあるかもしれないと思うからです。万が一、このような状態に陥ったときには、遠方に逃げ出したいなどと軽率に考えたり、脱走したりせずに、自らの義務に対する忠実を保ち、高慢を抑え、想像をコントロールしてほしい。これが私の望みであり、神があなたにお求めになる点です。

広場の労働者たちは一日中時間を持て余し、タラントンを土の中に埋めた男は時間を潰してしまいました。また、ぶどう園を管理するはずだった人もどこかに消えてしまう。全員に共通して言えることは、師キリストから委ねられた偉大な仕事に対する鈍感な態度です。主に協力して世を贖うために、自らがその道具であると自覚し、道具にふさわしい態度を示す、つまり、人々に役立つために喜んで全生涯を捧げねばならないにもかかわらず。

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実をつけない無花果

ベタニアからお帰りになったイエスが空腹であったと記すのも聖マタイです24。イエスの姿を見るといつも心を動かされますが、真の神でありながら真の人性を有する方の人間性が表に現れるとき、特に心を揺り動かされる思いがします。そのような時のイエスは、私たちの生まれつきの弱さや惨めさに至るまですべてを、そっくりそのまま、燔祭を喜んでくださる神に捧げなさいと教えてくださるからです。

空腹をお感じになりました。それも全宇宙の創造主、天地万物の主である御方が。主よ、神の霊感を受けた福音史家があなたのこの一面を書き残してくれたことを感謝しています。今後、一層あなたをお愛ししなければならないと痛感させ、あなたの至聖なる人性、私たちと同じ生身の人、「完全な人であり、真の神である方」25を、鮮明に目に浮かべながら黙想したいという強い望みを抱かせてくれるからです。

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働きずくめの一日を終え、翌朝早く町へ帰る途中、イエスは空腹を覚えられた。遠くに見事に生い茂る無花果の木が見えたので飢えを満たすために近づかれます。聖マルコによると「いちじくの季節では」26ありませんでした。実のならない季節であることはご存じでしたが、イエスは近寄って実を取ろうとなさったのです。葉を沢山生い茂らせ、いかにも実をつけているかのように見えたその木に、一つとして実のないことをごらんになった主は、「今から後いつまでも、お前から実を食べる者がないように」27と仰せになりました。

以後決してお前から実を食べる者がないように!何とも厳しい言葉ではありませんか。弟子たちの驚きはいかばかりだったでしょう。英知の神の言葉であることを考えれば、なおさらのことです。イエスは木を呪ったのです。

枝葉だけを茂らせた見せかけだけで、実はなかったからです。これで、効果を上げえない自分を弁解する余地のないことが明らかになりました。「まだ私は知識不足ですから…」と言う人がいるかもしれませんが、理由にはなりません。「病気ですから…」、「あまり才能に恵まれていないものですから」、「条件が揃いません」、「環境が悪いから」、いずれも弁解としては通用しません。偽りの使徒職という枝葉だけで自分を飾りたてる人、真面目に成果を上げようとせず、外見のみ生活を充実させているように繕う人、いずれもかわいそうな人々ではありませんか。やたらと動き回って組織作りに精を出して、万能薬のような解決法を考案しようと計画ばかり立てる人々、彼らも時間を活用している振りはするが、成果を上げることができない。超自然の樹液がなければ、実をつけることはできないのです。

常に効果を上げるために、勇敢な心構えをもって働くことができるよう、主にお願いしましょう。近寄ってみると輝くばかりの大きな葉のみの人、けばけばしい飾り以外は何もない人が、この世には大勢いるからです。神への飢えを満たして欲しいという思いを込めて、私たちを待っている人々がいます。たとえ弱いところだらけの私たちではあっても、教えはよく知っており、神の恩寵が欠けることもありません。必要な手段はすべて持っていることを忘れるわけにはゆかないのです。

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再び思い出してください。「時は短い」28、しかも、わずかの時間しか残っていないのです。この世での生活は束の間です。しかし、時間の活用に必要な手段はすべて揃っていますから、神がお与えになった機会を利用するには善意さえあればよいのです。主がこの世においでになって以来、私たちとすべての人々の「恵みの日、救いの日」29が始まりました。父なる神はご自分の怒りをエレミヤに託されました。「空を飛ぶこうのとりもその季節を知っている。山鳩もつばめも鶴も、渡るときを守る。しかし、わが民は主の定めを知ろうとしない」30と。このような怒りが私たちに向けられることのないように、全力を挙げて努力したいものです。

時期はずれや厄日は存在しません。神に仕えるには、毎日が絶好の日なのです。厄日とは、信仰の不足や、神と共に神のために働くのを厭う、怠惰と怠慢によって台なしにしてしまう日々のことです。「どのようなときも、わたしは主をたたえ(る)」31。時間は、険しい岩壁をつたう水のように指の間をすり抜けて消える宝、訪れては去りゆく宝です。昨日は過ぎ去り、今日も去りつつあります。明日という日も間もなく昨日になってしまう。人の一生とは短いものです。しかし、神の愛のためであれば、わずかな時間しかなくても沢山のことを成就できるのです

どれほど知恵をしぼって弁解しようとも無益なことです。神は寛大の限りを尽くして、忍耐強く諭し、喩え話で掟を説明してくださいました。しかも休みなく繰り返してくださいます。フィリポに言われたことは、そのまま私たちに向けることができるのではないでしょうか。「こんなに長い間一緒にいるのに、わたしが分かっていないのか」32。一日中、時間を浪費しないで真剣に働き、「一日の労苦と暑さ」33を喜んで忍ぶ時がもう到来しています。

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御父のこと

ルカ福音書の第二章は今日の黙想の締めくくりに最適と思われます。キリストの少年時代のこと、エルサレムからの帰途の出来事です。親戚や友人の間を捜してもキリストの姿は見当たりません。聖母とヨセフの心痛はいかばかりだったでしょう。そして、後になって、イスラエルの学者たちに教えを垂れるイエスを遠くから認めたときの二人の喜び。ところで、母マリアの質問に対するイエスの厳しい言葉に注目しなければなりません。「どうしてわたしを捜したのですか」34。

御子を捜し回って当然ではなかったのでしょうか。キリストを見失い、また、キリストに巡り会うとはどういうことかを知っている人なら、この意味が分かるはずです。「どうしてわたしを捜したのですか。わたしが自分の父の家にいるのは―父のことに従事するのは―当たり前だということを、知らなかったのですか」35。天の御父のために私の時間を余すところなく捧げるべきことを知らなかったのですか。

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ここで本日の結びとして、次のような確信をもちたいものです。この世における私たちの歩みは、どのような時期、どのような情況のもとにあるときでも、神のためであり、栄光の宝、天国の前庭である。また、それは神と人の前で責任をもって管理すべく任せられた素晴らしい宝である。しかも、身分を変える必要はなく、社会にあって自らの職業、仕事、家庭生活、交際をはじめとして現世的としか見えないあらゆる活動を聖化してゆけばよいと。

オプス・デイを通して神に仕えるべきことが明確に理解できたとき、私は二十六歳でしたが、そのとき私は主に、「八十歳の威厳をください」とお願いしました。神に仕えるため時間を上手に使いたい、たとえ一秒でも無駄にせず充分に活用せねばならぬと思い、子供のように天真欄漫に、もっと年をとらせてくださいと願いました。神はこのような願いを聴き入れてくださいます。私たちも次のような言葉を口にすることができると思うのです。「定めをあなたの守るわたしは、老人にまさる知恵を受ける」36。白髪をくしけずることが賢慮や賢明を意味しないように、若さは無分別を示す言葉ではありません。

キリストの御母のもとへ駆けつけましょう。イエスの成長を見守ったマリアよ、あなたはイエスがこの世に生活しておられたとき、いかに時間を活用なさったかよくご存じです。教会と人々に仕えるために与えられた日々を巧く活用するには、どうすれば良いのでしょうか。どうか、お教えください。優しい母よ、私の時間は私のものではなく、天の御父のものであることを忘れないよう、必要なときにはいつも優しく咎めてください。
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